今回は、「テセウスの船」というパラドックスを取り上げたいと思います。
突然ですが、伊勢神宮をご存じでしょうか?
日本の、三重県伊勢市にある神社です。
伊勢神宮では、20年に一度、式年遷宮といって社殿を新しく入れ替えるという行事が行われます。
さて、元あった社殿から新しい社殿に移った時、伊勢神宮は元の伊勢神宮と同じ、と言えるでしょうか?
同じ、という人もいれば、違うという人もいるでしょう。
答えが出ないという人もいるかもしれません。
このように、どちらも正しいと思えるようなことが両立することをパラドックスと言い、
その中でも、同じかどうか?に焦点を置いたものを「同一性のパラドックス」と言います。
同一性のパラドックスの中でも有名な話から取って、「テセウスのパラドックス」と言うこともあります。
今回はこの「テセウスのパラドックス」の元となった「テセウスの船」について紹介、解説していきます。
「テセウスの船」は、ギリシャ神話に由来
「テセウスの船」ってそもそも何なんですか?
「テセウスの船」は、ギリシャ神話における
ある伝説に由来しています。
ギリシャ神話における伝説、「テセウスの船」はこのようなものです。
ギリシャのアテネに、テセウスという王がいた。
テセウスはクレタ島に住む怪物のミノタウロスを退治するために、アテネの若者たちと船に乗ってクレタ島に向かい、無事にミノタウロスを退治しアテネに帰還した。
このテセウスの功績を称えるために、テセウスの乗った船は後世まで受け継がれることとなった。
船の老朽化に伴い船の部品は少しずつ新しい部品へと交換され、そのうちすべての部品が置き換えられた。
全ての部品が新しく置き換えられたこの船は、果たしてテセウスの船と言えるだろうか?
この問題はギリシャの哲学者の間で議論の的となり、ある者はテセウスの船であると、またある者はテセウスの船とは異なると主張した。
「テセウスの船」では、なぜ、答えが1つにならないのか?
これって、なんで答えが一つにならないんでしょうか…
それは、人によって「同じ」の解釈が違うためです
このテセウスの船において問題となっているのは、
「ある物体において、それを構成するパーツがすべて置き換えられた時、過去のそれと現在のそれは“同じ”だと言えるのか否か」という、「同じ」とは、どこを見て同じと言うのか?ということです。
モーニング娘。というアイドルグループを例にしてお話しします。
1997年から活動する女性アイドルグループで、メンバーは定期的に加入と卒業を繰り返して入れ替わります。
1997年のデビューから7年を経た2005年、最後の結成時メンバーが卒業したそうです。
さて、結成時メンバーが1人もいなくなり完全に別のメンバーに入れ替わったこの時のモーニング娘。は、デビュー当時のモーニング娘。と同じと言えるでしょうか?
同じ「モーニング娘。」という名前で同じような活動をしているのなら同じだ、と思う人もいれば、
同じ「モーニング娘。」という名前であってもメンバー(構成要素)が違うなら別物だ、と思う人もいます。
これは、「グループ名や活動内容が同じである」ことに注目するか、「中身や構成要素(メンバー)が同じである」ことに注目するかによる回答の違いです。
人によって、このどちらを取って「同じ」とみなすか?の感覚が違うため、答えが一つにならないのです。
なるほど!答えが一つにならないというよりも、
ひとによって答えが違って、どれも間違いではないのですね!
つまりは、そういうことです!
パラドックスには答えがないのです。
他にも同一性の問題を扱ったパラドックスとして、
「ヘラクレイトスの川」や、「おじいさんの古い斧」などが挙げられます。
ヘラクレイトスの川
ギリシャの哲学者であるヘラクレイトスは、以下のように主張した。
「人が同じ川に入ったとしても、常に違う水が流れている。
したがって、同じ川に2度入ることは出来ない。」
おじいさんの古い斧
きこりのおじいさんによって使い古された斧は、
今までに刃の部分を3回、柄の部分は4回交換されている。
現在使っている斧は、元の斧と同じと言えるだろうか?
そもそも「同じ」とは何なのか?
そういえば、そもそも「同じ」の定義って
なんなんでしょうか…
その議題は、「同一性のパラドックス」において
歴史上の哲学者もぶつかってきた問題です。
テセウスの船について議論される際、
「そもそも“同じ”とは何なのか?」、「“同じ”の定義とは?」についても焦点が当てられることがあります。
よくある主張として、「同じ」が二つの意味で使われているために、解釈が分かれるのだというものがあります。
一つは「質的な同じ」、もう一つは「数的な同じ」です。
「質的な同じ」の質的とは、英語ではqualitativelyといい、
「数的な同じ」の数的とは、英語ではnumericallyといいます。
同じ色で、同じ重さで、同じ性質の二つのボールがあった時、これらは「質的に同じ」ですが、「数的に同じ」ではありません。
片方のボールを別の色に塗ると、この二つのボールは「数的に同じ」になりますが、「質的に同じ」ではなくなります。
この理論で考えると、テセウスの船は「質的」な面を見ると同じであり、「数的」な面を見ると同じではない、ということになります。
「テセウスの船」以外にも身近なことで感じられる、同一性のパラドックス
同一性のパラドックスのような事象は、日常生活でも見ることができます。
例えば、台風は「第〇号」、ハリケーンは「アイリーン」「エディ」などの名前を付けられて発生から消滅まで同じものとして扱われますが、実際には、構成している水蒸気などの物質は途中で完全に入れ替わり、発生するときと消滅するときとは全く異なります。
しかしこれを「同じもの」として扱っているのは、台風やハリケーンに関しては「質的に同じである」ことの方が「数的に同じである」ことよりも重要であるからだと思われます。
実際、発生時に「第1号」と名付けられた台風の構成要素が完全に入れ替わって「数的に」変わってしまったからといって「第2号」と改名しても、ややこしいだけです。
また、老舗料理屋などで見かける「〇十年、継ぎ足し続けている秘伝のたれ」は、継ぎ足しを繰り返して一定期間経つと、中身が完全に入れ替わる計算になるそうです。
ですが、「同じ秘伝のたれ」として扱われるのは、これも「数的に同じである」ことよりも「質的に同じである」ことの方が重要であるからでしょう。
まとめ
思考実験とは、答えが決まっておらず一つにならないところが醍醐味であり、一番面白いところです。
ぜひ、この記事をご覧のあなたも、自分はどのように考えるか?
はるか昔から、哲学者が、考え、頭を悩ませたのと同じように、思考してみてはいかがでしょうか。
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